2. 真空を利用した薄膜形成の歴史

まず,はじめに真空と薄膜形成の歴史を振りかえってみる.5)
真空中で薄膜が形成されることをはじめて明らかにしたのは1852年のW.R.Groveによるスパッタ現象(後述)の発見であると言われている.ただ,これは薄膜の作製を目的にしたものではなく,真空放電管の陰極がスパッタされて削られ,管壁を汚すことの発見であった.その後,放電管の研究開発においては,いかにスパッタ現象を減少させるかがテーマであった.Groveの発見から日をおかず,1857年にM.Faradayは真空蒸着(後述)を試みたとされている.これは意図して薄膜形成を行なったとされており,最も古い真空中での薄膜の作製と言える.しかし,この方法が実用化されるのには時間がかかった.それは当時の真空技術が,きわめて低レベルであったことに起因していた.そして,ブレークスルーは1930年代に訪れた.油を作動液とした拡散ポンプ(後述)の完成をはじめとして,真空技術が急速に発展を遂げた.その結果,真空蒸着は一気に実用技術になった.
まず,それまでは化学的な手法で作られていたレンズの反射防止膜が真空蒸着で作製されるようになり,光学薄膜が大きく発展した.特に第2次大戦において,潜水艦の潜望鏡などレンズ面の面数が多い光学系では,透過率の大きさが戦果に影響されるので,反射防止膜は必要不可欠であった.
実際の反射率で,効果を比較する.
潜望鏡は15〜25個のレンズやプリズムで構成されている.したがって空気と接して反射する面が30〜50面ある.
仮に30面として,それぞれが屈折率1.52程度のガラスで構成されていると仮定し光学系全体の透過率を計算する.

  1. 反射防止膜がない場合
    • 空気とガラスの屈折率の違いによる反射で1面通るごとに,光量は96%に減少する
    • たとえば15枚のレンズで構成されるカメラでは撮像素子(CMOS)に入る光量は29%まで減少する
    • さらに,各面で反射された光は迷光となりゴーストやフレアを発生させ,像のコントラストを低下させる
  2. 各面に単層の反射防止膜がある場合
    • 1面の透過率は98.7%とする
    • 30面通過後に,透過する光量は入射光と比較し67.5%になる.反射防止膜を施してないものと比較し,透過率(透過光量/入射光量)は約2.3倍高くなる
  3. 多層反射防止膜がある場合
    • 1面の透過率は99.7%とする
    • 30面通過し,撮像素子に入射する透過率は91.3%になる
    • また,各面での反射が抑えられることによりゴースト,フレアが少なくなる

反射防止膜を施すことにより,光学系全体の性能が向上することが明らかである.

戦後,我が国においては,カメラなどの光学産業が隆盛したことから,真空蒸着による反射防止膜の研究は盛況に行われた.特に1964年に開催された東京オリンピックにおけるテレビのカラー中継は大きな転機となった.複雑なレンズ構成を持つテレビカメラの透過率向上と自然な色再現を実現するために,採算を無視したとも言える設備投資により電子銃蒸発源が実用化され,ついに多層反射防止膜が実用化された.
真空蒸着は,電気,装飾の分野でも利用され,新しい技術の代表として,さまざまな応用研究がなされた.さらに,真空技術の向上によって超高真空中で行なう分子線蒸着(MBE:Molecular Beam Epitaxy)が生まれ,プラズマとの融合技術としてイオンプレーティング(Ion Plating)という手法が生まれた.
一方,スパッタリングは長い間,放電管の陰極がスパッタされ管壁が汚れるのを何とか防止しようという研究において,言わば悪者であった.このスパッタ現象を利用して薄膜の作製を行なう応用研究は,主にアメリカでなされ,実用化技術として広く利用されるのは1960年代以後である.その後は,活発な研究が進められ,現在ではきわめて重要な薄膜作製技術になっている.
これまで述べてきた方法は,薄膜を形成する物質を加熱蒸発したり,ガスイオンの運動エネルギーでスパッタしたりする物理的な手法であるので物理蒸着法(PVD:Physical Vapor Deposition)と呼ばれている.これに対して,原料に化合物ガスを使用し,反応容器の中で化学反応を利用して薄膜を作製する方法がある.これを化学蒸着法(CVD:Chemical Vapor Deposition)と呼んでいる.CVDは原理的には1930年代には知られていたと言われるが,実用化されたのは1950年代後半で,ドイツにおいて耐摩耗材としての炭化チタン膜が作製された.1960年代になると,半導体のエピタキシャル成長に利用され,有力な薄膜作製技術となった.化学反応は,初期にはもっぱら熱エネルギーが利用され大気圧下で行なわれたが,1500℃程度の基板温度が必要だったため用途が限定されていた.その後,減圧下で行なう手法が開発され,処理温度は800℃程度まで下がった.CVDと真空との関わりは,初期には原料ガスを導入する容器をあらかじめ真空に排気し不要な気体を除去するために利用されていた.減圧CVDでは,真空技術とさらに密接な関係になったと言える.その後,プラズマを利用するCVDが開発され,処理温度は300℃程度まで下げられ,膜種によっては加熱しなくても作製できるようになった.最近は放電管やレーザなどの光により,化学反応を促進する方法も利用されている.

3. 真空についての基礎

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